轍(わだち) エピソード  父の話~命・人間愛を考える~

 私達は、「命を無駄にしてはいけない。」「人の命は、地球よりも重い。」「人生は、一回きり。死んだら終わりだ。やりたいことをやらなくてはいけない。」「人の命を奪ったり、自ら命を絶ってはいけない。」と言う。人間の命を考える時、肉体的な命のみならず、精神的なエネルギーを伴った心の命も含めることが大切です。
 心の命は、「自分のため」と「人のため」と相反する感情的様相の中で、主体的・依存的にエネルギーを費やしながら生きています。悲しいことに、近年は、歪んだ感情・憎悪の感情・自分だけの利益の感情のもと、エゴイステックで自分だけのために生きてる人が少しずつ増えてきています。高齢者をターゲットにした振り込めサギや弱い子どもを狙った犯罪は、典型的な例です。最近、私が乗ったタクシーの60代のドライバーさんと話をしていると、有職少年を含めた中学生にタクシーでお金を狙われた。私を乗せ運転をしながら少年の家は、顔であそこだと言いました。そう言えば、私もかつて、教職員転入者歓迎の宴会後、最終列車で有職少年から親父狩りにあいそうになったことがあり、翌日、駅に行き状況を説明し犯罪防止のお願いをしたことがあります。学校や家庭に適応出来なかった少年達は、平気で人間の道を外し犯罪を犯します。通常の私達も人間としての心をよく見つめていないと、結果主義で物質文明に拍車がかかる中、倫理観・自制心を失い自分勝手な日本人になります。ところで、日々の日常生活で自他の命を大切にし、真の意味で人間愛の心で行動することは一体どういうことなのでしょうか?それを亡き父の体験談を通して考えてみたいと思います。私にとって父は、恩師河津先生と並んで、人間的に越えることの出来ない存在です。

 最初に、私の父を簡単に紹介致します。私の父は、宮村家の4人姉妹に囲まれ長男として生まれました。徳山市の商業高校を卒業後、一旗揚げるために中国満州に渡っています。終戦で満州から引き上げ後、山口県警察官として採用されました。鑑識を専門として仕事が非常に出来たと聞いています。しかし、勉強嫌いで警察官階級昇進のための勉強はせず、ずっと巡査長でした。魚釣りをしたり、パチンコをしたり、ごく普通の父親でした。頭から尻尾まで魚の食べ方が上手で、子どもの私は感心をして見たものです。血液型はA型で、気は優しく一端言い出すと譲らない一本気なところを持ち合わせていました。歌はびっくりするぐらいの音痴で歌を口ずさむことはなく、歌手の田端義男が好きでした。当時17歳の母と昭和26年入籍後、28年に私が生まれました。そして、私が25歳の時、51歳で突然の心不全で亡くなりました。昭和53年の秋、柳井警察署から下関警察署へ転勤直後、1週間目の出来事でした。当時44歳の母の動揺・悲しみは、計り知れないものでした。社会人として一歩足を踏み入れていた私にとっても、衝撃的な出来事でした。小さい時から見てきた父親は、私に良い影響を与えるものばかりではありません。どちらかと言えば、マイナスのイメージが強いといっても過言ではありません。家庭崩壊の危機もあり、家族の子どもとしてこれは許されない出来事もありました。父親のすべてを知っているわけではありませんが、たった一つの父親の体験談で、マイナスのイメージから今日まで尊敬の対象へと大きく変わりました。その体験談は、今もって、私に影響を与え続け、人生観の根底に息づいています。では、父の体験談を私の思慮を入れながら轍として紹介致します。

私の20歳は、作曲に親しみ、幸せで昭和の良き時代でした。大学生の夏休みは、同じく帰郷をした小・中・高校の仲間と魚釣り・魚突き・さざえ捕りをすることが常で親交を温めていました。海での遊びは、中・高校時代に行った秘密の場所です。ある日、捕った魚介類をつまみにして、警察官舎の私の家で大宴会をすることになりました。私の友人であるMK君、YT君、SK君、HO君、MKさん、そして、警察官舎の私の父も含めて警察官の方3名とその奥様方と年齢差抜きの大宴会となりました。私の母も台所で大忙しで調理に張り切っていました。私の友人達も二十歳そこそこの思いを遠慮することなく笑顔満点でいろいろなことを話していました。先輩の警察官の皆さんも一人の人間に戻って、私達若者の話を大きな心で聞いてくれました。
私は、酒に酔った勢いで雑学で読んだ本を得意げに話し出しました。
「人間は、愛が大切だ。愛がない自分勝手な人間は人間でない。」と言う内容を得意げに大声で話しました。皆さんも、私の話をよく聞いていました。その時、無口で酒を飲んでいた父親が烈火のごとく私に向かって話し始めました。一瞬にして、その場の空気が変わりました。
「克彦!軽々しく命や愛について得意げに話すものではない。お父さんの話を良く聞け」とみんなの前で話し始めました。その話は、父の若い時の体験によるものでした。日本が戦争に負け、満州から日本へ引き上げをする時の話です。当時、満州には、日本への引き上げ者が100万人いたと言われています。敗戦から、数年かけての多くの引き上げ者は、非常に悲惨なものであったと報道もされています。100万人のうち20万人が日本に帰るまで死亡しています。満州での日本人の生活根拠地から港まで行くにも命からがらだったと言われています。日本人は、外国人から暴力・略奪を受け、女性は希望をしない子どもを身ごもって自ら命を絶った人もいたと言われています。引き上げ者の悲惨な出来事、とりわけ希望しない子どもをお腹に宿した特殊婦人は、小倉でお腹にいた子どもが歴史の闇の中に葬られたそうです。それをKRY山口のテレビ番組で放映していました。満州からの引き上げは、今の平和な日本から想像できないほど過酷なものです。過酷な時代背景の中、ドラマのような父の体験談は、命・人間愛・生き方について考えさせるものです。
父の体験話は、要約すると次のような内容です。

(父の話)

 父は、たくさんの日本人を乗せた引き上げ船に乗り、山口県徳山市の実家に向かっていました。出港してから500メートル沖に出たあたり、戦時中、海にばらまかれた機雷に船があたり大きな爆音とともに沈没を始めました。船内は大パニックになりました。船から救助のSOSを出しました。すぐに、アメリカ船が日本人を救助するために引き上げ船の近くに来ました。そして、沈没し始めた引き上げ船の横にアメリカ船は接岸しました。すると、アメリカ船に我先にと日本人が飛び渡っていきます。若かった父も船底の船室から飛び出し、アメリカ船に飛び渡りました。アメリカ船に移れたことで父の命は、守られ一安心です。多くの人が飛び渡り損ね、船と船の間に落ちていった人もいたそうです。おそらく、命を落としたであろうと父は言ってました。命からがら無事にアメリカ船に渡って船上を歩いていると、沈みかけていた引き上げ船の船底から赤ん坊の泣き声が聞こえました。すると、父は、勇敢なことに、沈みかけていた引き上げ船に再び飛び渡り赤ん坊を助けにいきました。船底に行き、見知らぬ赤ん坊を抱きかかえ凄い勢いで船上に行き、再度、アメリカ船に飛び渡ること成功しました。アメリカ船に渡り終え、一時してから、アメリカ船は、沈没していた引き上げ船から離れていきました。100m以上は離れたそうです。沈みかけた船には、まだ、日本人がかなり残っていたそうです。船が沈没すると、大きな渦を巻くので巻き込まれないためにアメリカ船は離れたのです。海には、多くの人が助けを求め浮いていました。一時して、引き上げ船は、勢いよく沈没をし始め多くの日本人が渦に巻き込まれました。
 引き上げ船の沈没後、見知らぬ赤ん坊を抱きかかえたまま父は、アメリカ船の船上で座り込みました。他の助かった日本人も安堵の表情を浮かべていたそうです。父は、もしかすると、見知らぬ赤ん坊を知っている人がいるかもしれないと思い、赤ん坊を抱きかかえたまま「この子を知っている人はいませんか?」と大声を出して船上を歩きました。すると、驚いたことに実の母親がいました。母親は、自分の子どもを引き上げ船の船底に残したまま、自分だけアメリカ船に飛び渡っていたのです。
 母親は、無言で泣きながら赤ん坊を引き取りました。
 父は体験談を話し終え、「いざ、生死極限の場面においては、人間は自分を守るものだ。自分の子どもを置いて逃げる母親がそうだろう。そう、簡単に、本を読んだだけで、命とか愛について得意げに軽々しく知ったかぶりをするものではない。」と口下手で無口な父から一括されました。

二十歳の私は、父の体験談を始めて聞きました。父の体験談は、その後、私の人生に大きな影響を与えます。いざ、生命極限場面においては、話の中に出てくる実の母親のように自分の命を優先する方が通常の人間であると思う。しかしながら、父のとった行動は、一端、アメリカ船に飛び渡り自分の命の安全が確保されていたにもかかわらず、なぜ、自分の命の危険を冒してまで引き上げ船に渡り見知らぬ赤ん坊の命を救いに行ったのだろうか?何が、父にそのような行動を取らせたのだろうか?父のとった行動は、生死極限においても命を尊ぶ人間愛だったと考えます。自分よりも弱い者をかばう優しい心に根ざしていると考えます。今の私達は、実際に生命極限の場面に遭遇することがほとんどない時代に生きています。だから、人間愛を大切にするためには、常日頃から、自他の命の尊さを意識をし続けていくことが大切です。社会に目を開き、人間としての愛を育てていくことが大切だと考えます。そうすることによって、急激に変化している現代においても、人間愛を育てていくことは出来ると考えます。
 最近の二つのニュースが父の体験談と重複する部分があるので、改めて、命・人間愛について考えました。皆さんは、よくご存知だと思いますの詳しい説明は割愛します。
 ・韓国のセヴォール船沈没で、自己中心性が強い船長のとった身勝手な行動のため、  高校生を中心にして多くの人達が死にました。(自分だけの自己愛)
 ・御嶽山の火山の噴火で20代の青年が小学校5年生の女子に自分のジャケットを掛  けて熱灰から守ろうし、二人の死亡の発見後、自分よりもか弱い見知らぬ少女を守  ろうとしていた若者の感動的な話。(人のための人間愛)
 東日本大震災でも多くのドラマがあったと思われます。私達は、日々の地道な日常生活の中で日本人として思いやりの心をもって、人を大切にし続けていきたいところです。
今、命の大切さを強調することに異論を唱える人はいないと思います。しかしながら、言葉だけで論ずるだけではだめだと考えます。人のために自分が成長していくことを心掛けていないと、命を大切にする心は真の意味で育ってこないと考えます。心の豊かさが大切な時代と言われながら、スピードを伴った結果主義のもと成果が求められ、命が益々軽くなった時代になりました。インターネットでは、自己本位に命を軽く扱っているサイトもあります。イスラム国の残虐な動画や写真をITの得意な日本人が興味本位に動画や写真に編集して流しています。又、興味本位でそれを観ている人も多くいます。そこには、命が非常に軽く扱われている姿を垣間見ることが出来ます。命を大切しているようで、今の日本は、自己興味本位で命が非常に軽く扱われている時代に巻き込まれています。そうも言いながら、自他の命を大切する心ある日本人が大多数です。時代に押しつぶされ、自己中心的な方向に意識が変わらないことを願っているところです。平和で飽食の日本、とりわけ、これからの時代を生きていく子ども達の心がどのように形成されていくか心配です。地域が壊れ始め、家庭が壊れ始め、学校も知徳体の調和のとれた子どもの育成とは叫び声ばかりで、成果主義のもと大変な時代に入ってます。活力を失った教員も出てきています。それは、精神疾患等で休職者が増えてきていることからも伺うことが出来ます。

 人間として正しい価値観を次の世代に継承したいものです。自分が歩んできた人生、環境によって、今の社会に矛盾を感じている人も多いと思います。「戦争は絶対にいけない。」「どんなことがあっても、人の命を崇めることは絶対にいけない。」「自分で自分の命を崇めてはいけない。」「介護に苦しんで、介護を受ける人を崇めてはいけない。」「高齢者を騙していけない。」「自分より弱い者に向かって暴力を振るってはいけない。」等あげればきりがありません。人間には理性と感性があります。倫理観・日本人が忘れかけている手を合わす宗教観も持っています。長い人生では、理屈では割り切れない理不尽なことにも遭遇します。私は、どのような運命的・宿命的な出来事が待ち受けていても、自他を大切にする心を広く深く形成し続けたいと考えています。そして、人間誰しもが持っている自己中心的な心を克服していきたいと考えています。
父の体験話から、言葉だけの綺麗ごとではなく、命・人間愛について学びました。この世に生を受け、人のために自分が成長する経験を通して、人生哲学を深め、命の限り私の魂を磨き続け、人間愛を深めていきたいと考えています。

Posted by kudamatsu_tt