轍(わだち) エピソード 1 先生との出会い

 振りかえると、出来の悪い学生でしたが・・・・・・・・・・・・・。

 大学1年生は、ギター片手にエネルギーに溢れていました。当時流行っていたフォークソングのブームにのって作曲をすることに夢中な時期で、仲間の前で曲を披露しては自己満足をしていました。教育学部に在籍していながら、教育の勉強をしようとする意識は薄く、ただ、エネルギー暴発タイプの人間であったように思います。
 大学2年生の頃は、心理学研究室で口ばかりの学生でした。先輩の皆さんと一緒になって行うゼミでは、(確か「学習集団の力学」という論文だったと思います)予習の勉強もろくにしないで
「分からない。分からない。」
と文句ばかり言ってました。先輩から
「宮村君は、口ばかりで勉強をしないのね。」
とよく言われました。
 挙げ句の果てには、先輩の皆さんと一緒に勉強をしていても
「2年生の私達には全く分からない。」
と言い、2年生だけの勉強グループを作り、本当に初歩的な心理学入門の本を勉強する有様でした。振りかえるとふざけた学生で先輩に嫌な思いをさせたと反省もしてます。このような私でしたが、河津先生は大きな心で、研究室に在籍している学生を育てるために一人ひとりをよく観られておられました。私もその中の一人です。

 そう言えば、先生との出会いは今でも覚えています。大学1年生の教養学部の後期の「心理学概論」の授業です。小声で話される先生の授業は全く面白くなく、何を言っているのかさっぱり理解できませんでした。心理学の先生は、こんなものなかと思った次第です。若いということは、人生を知らないで勝手にいろいろなことを考えるものです。思い出される先生の授業は、確か学習心理学のオペラント条件づけの話だったと思います。ネズミがどうだこうだの話で
「これが心理学なのか。全然面白くない。」
ネズミでどうして人間のことが分かるのかと思いました。
 その後、心理学に興味を失い授業には出なくなりました。それでも、後期のテストは受けました。先生の「心理学概論」のテストは、「不可」 。
「不可」で先生との出会いが始まりでした。教養学部で河津先生の授業で単位をおとし、先生にお世話になり私の人生に大きな影響を与えることになるとは、その時は知るよしもありません。大きな運命の流れがあったと思います。

 教養学部から教育学部に移る時、研究室を決めなくていけません。第一希望が社会科研究室、第二希望は英語研究室、第三希望が心理学研究室としてました。私の場合は、予想はしていたものの、第一、第二希望がはずれて第三希望の心理学研究室に決定。それというのも、教養学部では、「良」「可」が多く「優」は数えるだけの数。しかも、仮進級ということで、専門課程に行っても教養学部へ7教科も単位を取りに行かなくてはいけない始末でした。人気のある社会科研究室は、当然無理だろうと思ってました。お荷物をいっぱいかかえ、心理学研究室でお世話になることになりました。心理学研究室に決まり、河津研究室だけには行かないと心の中では思ったものです。

 運命はいたずらものです。心理学研究室では、当時4つのゼミコースがありました。それは、発達心理学、人格心理学、学習心理学、そして私がお世話になることになった河津先生の社会心理学研究室です。3・4年生の先輩の皆さんは、新しく心理学研究室に入室した2年生のゼミ勧誘をあの手この手で行います。私は、それぞれのゼミの内容や指導される先生方についてお話を伺いました。先輩のお話を聴く中で、若かった河津先生の評判が学問的にも人間的にも素晴らしいと聴き、予想外の印象を持ちました。人の心に飢えていたのしょうか?私が社会心理学のゼミを決めたいきさつは、先生のうわさだけでなく、勧誘のための河津研究室のコンパです。お酒に酔い、先輩の皆さんと大騒ぎをしてこれは楽しいゼミだと決めてしまいました。その時、コンパにおられた河津先生は、教養時代に受けた先生の授業の印象とは違って、一回りも二回りも大きな人に見えました。直感的に
「河津先生のもとで勉強をしたい。」
と思いました。3年生のゼミの先輩に
「教養で河津先生の授業で不可をとった。大丈夫だろうか。」と尋ねると
「気にすることはない。男なら不可をとるぐらいがいい。」
と訳の分からない説明を受けました。当時、妙に納得したのですから不思議です。
 通常の形での出会いとは異なり、出来の悪い学生として先生にお世話になることが決まりました。

 そう言えば、こんなこともありました。ゼミでの輪読会でのことです。学校社会心理学の論文をゼミの学生達で輪読をしている時、みんなスムースに読み、私の番が回ってきました。調子よく順調に滑らかに読んでいると次の文章が出てきました。
「・・・・・・・・犬猿の仲・・・・・。」
「ウーン。」と止まってしまい
「いぬさるのなか。」と読んでしまいました。国語がもともと大嫌いであった私でした。「けんえんのなか」と読めなかったのです。先生も含めて学生達、大爆笑の渦に包まれました。私は、嫌な思いもすることなく真面目な顔で
「知らなかった。」
とみんなの前で戸惑いました。小中高の国語の不勉強がたたってしまいました。
 後日、先生から、
「犬猿の仲を知らないで、よく、宮村君は、大学に受かったね。しかしね、不思議なことに私の周りには変わった者が自然と集まってくるんだよ。」
と再度、笑われました。先生は、ちょっと変わった人間が好きで、権威的・威圧的・怠け者・要領のいい人間は大嫌いでした。それでいて、九州男児として人間愛根ざした大きな独立心を持っておられる方でもありました。研究室では、一人ひとりの学生の個性・独自性に根ざした専門的な勉強を学生にさせようと、あの手この手で学問を仕かけておられました。先生の教え子達の多くは、社会に出て一線級で活躍をしました。また、先生には、多くの教え子とたくさんのエピソードがあったことと思います。私は、自然と先生のもとで勉強をする学生へと変わっていきます。そして、先生の人間的な大きさ、優しさに直接触れることになります。
 これから、エピソードを通して先生から学んだ人間愛の大きさを少しずつ紹介していきます。

Posted by kudamatsu_tt